バイアグラに懸ける
イラク戦争は短期で終結し、その後、株価は上げ始めた。
スタインバーグのショート・ポジションは彼を奈落の底に突き落とした。
二〇〇三年六月末までに、七五〇〇万ドルあった運用資金は半分以下の三〇〇〇万ドルに減っていた。
危機を感じた投資家から総額四五〇〇万ドルの解約請求が殺到したためである。
「山高ければ谷深し」とは真実だった。
そして、絶頂を極めるまでの期間とどん底に落ちるまでの期聞は同じ長きだった。
七月末には、コラール・ファンドは店じまいの準備にとりかかっていた。
ニューヨークのオフィスも一〇月いっぱいで閉鎖することになった。
デイピッド・シングルトンは、ジュネーブに行ったきりのスタインバーグとその後二度と顔を合わせることはなかった。
スタインバーグはジュネーブの投資家にどんな顔をして謝罪したのだろうか。
事業を起こすこと、すなわちヘッジファンドを立ち上げることは、資金提供者である投資家、共同経営者であるパートナーたちと従業員、そしてその家族全員に対する社会的責任を負うことを意味する。
スタインバーグには事業主としての基本的な倫理・責任感が欠如しており、その態度に従業員のひとりとしてデイビッドはひどく腹が立った。
ファンド運用の失敗の責任はすべてスタインバーグにあった。
デイピッドは、スタインバーグの自己満足だけに終始したヘッジファンド運用会社の従業員として働いたことを思うと、ひどく気分が落ち込んだ。
スタインバーグはまったく意味のない「敗北者(ルーザー)」だった。
しかし、デイピツドは自分自身をスタインバーグと同じ「ルーザー」と考えることはできなかった。
デイピッドは自分のトレーデイング・ブックを見なおした。
二年足らずではあるが、日々のトレーデイングの記録があった。
スタインバーグの運用実績も含むとファンド自体は損を出したが、デイピッドは通算のトレーデイングで損を出していなかった。
自分にはこの経験から学んだものがあるとデイピッドは確信した。
二〇〇三年の年末に、デイピッドはコラール・ファンドのトレーデイングで利用していた大手のプライム・ブローカーの友人に電話をかけた。
スタインバーグの事情を知る彼女は、デイピッドに好意的で親切だった。
デイピッドは彼女に「自分でヘッジファンドを立ち上げたい。
力になってほしい」と頼んだ。
「もちろんよ、近いうちにあなたのP&L(トレーデイングの収支表)を見せてちょうだい」と彼女は答えた。
ファニー・ファンドは毎年四月の第三月曜日に株主総会をルクセンプルクで開催してきた。
ところが二〇〇三年の株主総会は、ファンドが二月に凍結されたことで先送りになった。
ファンドの投資金額の六〇%はヨーロッパの富裕層からの資金だったが、四〇%は大手プライベート・パンクなどヨーロッパ機関投資家の資金だった。
株主の手元には、二〇〇二年二一月三一日付けのファンドの財務諸表が郵送された。
ファンドの財務内容をめぐり、運用会社取締役会と投資家側との聞で質疑応答が繰り返された。
スティーブは、自分を通して投資した香港の投資家を集めて二〇〇三年六月初めに説明会を聞いた。
説明会といっても、ニューヨークの取締役たちと香港の投資家グループをウエツブと電話で?ないだインターネット会議である。
投資家はあらかじめ質問状を取締役会に送り、その質問にポール・シェーカー社長とジェームズ・ベツクマン副社長そして弁護士の三名が投資家の質問に丁寧に答えた。
ヨーロッパでファンドを積極的に売り込んだダーク・ヴァン・ベルグの姿はそこにはなかった。
会議は、ウエツブ・エックスというシステムを使い、投資家とファンド側は電話線を用いて話す一方、コンピューター画面では財務諸表とファンド側の三人の顔が映し出され、動画として十分に機能した。
ウエツブ・エックスを用いたインターネット会議は、ヨーロッパの投資家、アジア地域の投資家と二固に分けて行われた。
いずれの会議でも、ファンド側が財務上の数字についてひとつひとつ説明したので、投資家の靖疑心と怒りはいったん収まり、結果は「様子見」となった。
しかしその後、ファンドは破綻したとか清算されるなどといううわさが飛び回った。
八月末にファニー・ファンド取締役会は、個々の商業用不動産案件ごとに目下の運用状況の報告を兼ねた投資家向けのレターを郵送した。
この内容は、やや明るいものだった。
特に新規事業である「家賃保険」については、二〇〇三年七月に再保険を担当する大手保険会社と約款を仮締結し、一億ドルの保険事業が可能になり、必要な関係当局に保険商品としての登録や申請を行い、二〇〇三年一01三月期にはニューヨーク市で事業開始の予定と記されていた。
スティーブも投資家も、この新規事業が軌道に乗ればファンドの運用業績に大きな落ち込みはないだろうとやや楽観的に考えていた。
しかし本当に悪い知らせは一一月初めに、二〇〇三年六月三〇日付け財務諸表と半期会計報告書とともにやってきた。
二〇〇三年前半期で、ファニー・ファンドの基準価格は三五%も目減りしていた。
これには多くの投資家がショックを受けた。
と同時に取締役会に対する不満が大きく渦巻き始めた。
ファニー・ファンドの株主総会は、二〇〇三年一二月一六日にルクセンブルクの殺風景なヒルトン・ホテルで開催されることになった。
二一月初めにファンド取締役会は、すべての投資家にファクスで株主総会の日時・場所などの案内状を送った。
そして案内状の最後の段落には、「質問があれば書状で総会の一週間前までに取締役会に送ること、当日は株主からの質問は受け付けない」と但し書きがあった。
スティーブは、この但し書きは異常だと感じた。
企業経営陣と株主とのコミュニケーションを図るのが総会の目的ではないのか。
なぜ、取締役会は投資家からの質問を避けようとしているのか。
な、ぜ、そこまで保身的になるのか。
投資家に知られては困る事情があるに違いない。
案の定その翌日、このファックスを見たヨーロッパの投資家も同じことを考えたのだろう。
投資家から取締役会への怒りの電話が殺到した。
三月一四日にヨーロッパの大手機関投資家が集まり、株主総会の前に、個別に取締役会とミーティングを持った。
このとき機関投資家の聞では、現行の取締役会を更迭すべきであるという明らかなコンセンサスが固まっていた。
そんな空気のなか、一二月一六日に聞かれた株主総会で、取締役会に反対する口火を切ったのは、アメリカ人のデニス・ランドックだった。
ランドックは一九九九年にCSFB(クレディ・スイス・ファースト・ボストン)からファニー・ファンドに引き抜かれ、二〇〇二年一〇月まで実際の投資案件の担当責任者であった。
不動産の弁護士資格を持ち、ウォール街で投資銀行業務を担当してきたベテランのランドックが、なぜファニー・ファンドを辞めていたのか、そのときまで投資家は何も知らなかった。
ランドックは自身の弁護士とともに、ニューヨークからルクセンブルクの株主総会に突知乗り込んだ。
彼は投資家を目の前に、自分がファニー・ファンドを辞めたのは、不正な会計処理を目の当たりにし、運用会社としてまったく倫理観の欠如した経営を行っていたことが発覚したためだと発言した。
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